稲盛 JAL 就任

稲盛和夫は京セラを創業し、JAL(日本航空)の会長に無報酬で就任し、2兆3000億円という負債のあった日本航空を3年で再上場させました。稲盛和夫式経営の根幹にあるのはズバリ心です。人間として何が正しいのか、利他の心です。中学受験に2度失敗し、希望する医学部を不合格になり、倒産寸前の会社にしか就職できず、自衛隊に合格したものの入れずという経験をしています。だからこそ、みんなの心に響く名言や著書を残しています。これからの時代のビジネス、仕事にこそ大切な稲盛和夫氏の著書生き方の要約や名言などを紹介します。1932年、昭和7年に鹿児島県鹿児島市薬師町に生まれ、父親は印刷工場を営んでいました。2度の中学受験失敗を経験しています。また、「肺浸潤」という結核の初期の病に侵されたり、空襲で実家が焼けたりという経験もしています。高校生の時は放課後や日曜日は父の仕事を手伝い紙袋を売って回りました。ある日、ヤミ市の菓子問屋の奥さんが、駄菓子屋が仕入れに来た時に使うからうちに紙袋を置いたら売れるよと助言を受け、大量の紙袋が売れる経験をして、お金や商品の動きを知る体験となりました。ひたすら勉強に努力する姿勢を認めてくれた担任の薦めもあり、大学進学を考えるようになりましたが、父親は最初は認めてくれませんでした。そこで、兄や担任も一緒になって父親を説得して大学進学を認めてくれたのです。自分が重い病を経験したこともあって、医学の勉強をしたいと思っていましたが、希望の大阪大学は不合格でした。父親をやっと説得した手前、浪人するわけにもいかず、やむなく鹿児島県立大学の工学部応用化学科に入学し、有機化学を専攻しました。アルバイトと奨学金で自分の学費を払い、丈夫な体にするためにお金のかからない空手部に入りました。父親にお金の負担をさせられないので、参考書も買えず毎日図書館に通い勉強しました。そうすると、成績はトップクラスになりました。就職の時期を迎えると、当時は大変な就職難で、高い給料を貰えるような会社にはことごとく不合格となって、再び挫折を味わいました。1955年、昭和30年に卒業し、教授の紹介で碍子(がいし)メーカーの「松風工業」に入社しました。松風工業とは、京都の南の郊外(現在の長岡京市)にあって、1906年、明治39年に清水焼の窯元の三代目松風(しょうふう)嘉定(かじょう)によって創業された会社で、高圧碍子(がいし)という電線を支柱などに絶縁固定する器具を日本で初めて製造した名門の企業でした。でも稲盛和夫氏が入社したときには、すでに倒産寸前で退職者が相次いでいる時だったのです。教授の紹介で就職してはみたものの、碍子というものは今まで学んできた学問とは全く違うものでした。経営状態が厳しく、給料が遅れることも度々で、寮とは名ばかりのあばら家でした。近所の総菜屋さんのおばさんには「あんな会社にいたら嫁さん貰えないよ」と言われて意気消沈しました。一緒に入社した者も最後の二人になり、お互いで「辞めて自衛隊に入ろう」と決めて自衛隊の幹部候補生学校を受験し合格したのですが、手続きに必要な書類が実家から届きません。待っていると、兄から手紙が届き、「貧乏な家の為に頑張ってくれるものと信じて大学進学まで応援したのに、就職した途端に会社の悪口を言って辞めるというのはなにごとか。入れてくれただけでも感謝して働きなさい」と書いてありました。その手紙を読んで、今まで応援してくれた家族に対して申し訳ないと思い、もうグチを言わないで一生懸命頑張ると自分に誓って、辞めることを踏みとどまりました。そのころ、稲盛和夫氏が会社から任されていたのは、将来発展が期待出来るエレクトロニクス向けの「ファインセラミックス」という開発でした。そこで、寝る間も食事をする時間も惜しんで毎日研究に打ち込んだのです。すると、いい研究結果がおもしろいように出てきたのです。そこで気づいたのです、「一生懸命やればうまくいくものだ。うまくいくと褒められて、仕事だって楽しくなる。仕事が楽しければもっと頑張る気持ちになるから、さらにもっとうまくいく。この繰り返しが人生にとって最も大事な事だ」その1年半後に稲盛和夫氏はなんと「フォルステライト」という新しいファインセラミックスの合成に成功したのです。フォルステライトはアメリカで1年前に初めて合成されたばかりの材料で、日本で初めて開発に成功したのでした。そして、フォルステライトのすばらしい特性を生かして、テレビのブラウン管用の絶縁セラミックス部品の製品化に成功し、独立した部署となり売り上げを伸ばして利益を上げて行ったのです。そして、稲盛和夫氏は量産するための機械の設計までこなし、やる気のある若者を熱意をもって採用することで良いチームワークで仕事が出来るようになったのです。ですが、ある時、日本を代表するような総合電機メーカーから超小型のセラミック真空管用の材料開発の注文が入ります。開発にてこずっていると、新任の技術部長がやってきて、稲盛和夫氏の能力を否定するように叱責されたのです。セラミックスの何も分かっていない新任の技術部長にいきなり否定されたことに嫌気が差し、「私に出来ないというなら、会社を辞めます」と言ってしまったのです。周りはざわつきました。稲盛和夫氏が辞めるのなら自分も辞めると次々に言い出し、ついには一緒に会社を作って、新しい製品を世の中に送り出そうと言うのです。その時の一人、青山政次は(後の京都セラミックの社長)大学時代の同級生の配電盤メーカーの重役二人も説得し、その内の一人が銀行の借り入れに家を担保にまでしてくれたのです。「男が男に惚れた」と言って、稲盛和夫氏の元に集まったのです。1959年、昭和34年に社員8人の京都セラミックを設立し、1966年、昭和41年に社長に就任し、創業12年で大阪証券取引所に株式を上場しています。でも、それは稲盛和夫氏が、自分と一緒に働いている人たちが生活できなくなることだけは避けたい、との思いで必死に頑張ったからなのです。1960年代中ごろと言いますと、トランジスタがテレビやラジオに大量に使われるようになっていて、京都セラミックはその部品開発に成功し、アメリカを始め香港などからも大量の注文が入りました。1966年、昭和41年にとうとうアメリカのコンピューター最大手IBM社から、大型コンピューター用の集積回路用基板の大量注文を受けました。しかし、その品質基準が高すぎ、その後の困難は大変なものでしたが、なんとかやり遂げました。最後の製品の積み込みが終わった時に思ったことは「何としてもやり遂げて見せるという意思を持って努力を続ければ、不可能と思った事も可能になるものだ」というものでした。この成功により、業界での評価も一気に上がり、スピード成長で一流企業の仲間入りをしたのです。1973年にオイルショックによって、稲盛和夫氏は石油資源に頼っている現状に大きな反省をし、自然エネルギーを活用して太陽光発電の事業化の必要性を感じました。1975年、昭和50年に京都セラミックの呼びかけにより、日米5社が集まって「ジャパン・ソーラーエナジー」という会社を設立したのです。そうして研究開発を進めたのですが、製造コストが中々下がらず赤字続きとなり、またオイルショックが終結すると世間は再び石油に依存し、太陽光電池への社会的関心も無くなり、ジャパン・ソーラーエナジーから各社が撤退して行きました。ですが稲盛和夫氏は、この事業は「世のため人の為に始めたことだ。新しいエネルギーとして太陽電池の実用化をめざすという志があって始めたのだから、少々の困難では止める訳にはいかない。京セラだけでも続けよう」と続けて行ったのです。こうして、1982年に多結晶シリコン太陽電池の量産に成功してその技術は世界中に広まり、1993年には日本で初めて住宅用の太陽光発電システムを発売しました。地球温暖化の対策としてクリーンなエネルギーが求められ、太陽光発電は益々重要となって行き、また世界中の電気の通っていない地域でも京セラの太陽電池が役に立っているのです。1982年に京都セラミックは「京セラ」と社名変更しました。1983年昭和58年の取締役会でのことです。稲盛和夫氏は「会社の資金は1500億円あります。その内の1000億円を使わせて欲しい」と言ってきます。第二電電という新しい会社を作る為に取締役会で了解を求めたのです。それまで、日本では電電公社だけが電話の通信事業を行うことが出来ていました。ですから、独占していて世界に比べて通信料がとても高かったのです。昔は国際電話をすると非常にお金が掛かって大変でした。ですから、新しい電話会社ができれば電話代もきっと安くなると期待されました。そこに至るまでに稲盛和夫氏は自問自答を繰り返し続けました。「私が、新しい電話会社を作ろうということの動機は善なりや、私心はなかりしか」自分の名を残したいという私心ではないのか?そして、1984年昭和59年に京セラが中心となって第二電電企画、後の第二電電を設立したのです。その後、電話会社は他にも2つ出来ましたが、三社の中でもトップを走り続けました。最近では、「au」という携帯電話の通信サービスを提供しているブランドにもなりました。人の心とは、はかないものですが、ひとたび心の結びつきが出来ると、これほど頼りになるものも無いのです。ですから、人の心と心の結びつきをベースにして稲盛和夫は経営を行ってきたのです。人間は心で思った事を実行に移し、そうやって心に思い描いたものが現在の環境や立場を作っていますし、人格や人柄の形成にもなっているわけです。ですから経営にとって心の部分を大事にすることはとても重要なわけです。それには、まず自分の心に恥ずべきことは出来ません。ですから、短期的に利益を追いかけるような経営はできません。常に正しい道「正道」を歩むという事業をしていないと、永続的な経営はできないのです。ですから、稲盛和夫氏の判断基準は「そういう生き方をしようと決めれば、とくに難しい事では無いのです。私にはもともとそれしかありませんから、いつもと同じにしていただけで、何でもない事でしたと言います。ですから、自分だけ儲けようと思わずに「・「全従業員の物心両面においての幸福を追求すること。それと同時に、人類、社会の進歩や発展の為に貢献すること」という理念であり、それを実行するためには会社の高収益という体質が必要です。・心の反映によりあらゆる事象は起きているのです・ひとつのことにひたすら打ち込んでそれを究めると、人生の真理を見出すことが出来きるようになり、森羅万象を理解することができるのです。・「思う」ということは、全ての人間の行動の源となっている。・常に前向きの姿勢で 熱意に満ちた努力を重ねてさえいれば、たとえ才能に恵まれていないとしても、素晴らしい人生を送ることができるのです。・ただ「儲けたい、楽をしたい」ということだけが人生の目的だったのならば、経営者自身が真の幸福を得ることなんてできませんし、企業を長く発展させることも出来ません。・もうここまででいいと思った瞬間から会社は没落していくのです。・心出版社:サンマーク出版人生を意のままにする力。心が全てを決めているという事。物事を成功に導く極意が書かれています。・稲盛和夫の実践経営塾出版社:PHP研究所稲盛和夫氏が塾長を務める盛和塾で交わされる問答集。経営を学びたい人に役立つバイブルのような本です。・日本への直言-夢と志ある社会を求めて-出版社:PHP研究所人の生き方にプラスして経済という視点を加えることにより、現実的な視点から物事の良し悪しを判断しています。『日本への直言』は、成功を収めた一人の男の思想に触れ、現実的な経済の知識も得ることもできるのです。出版社:サンマーク出版稲盛和夫氏は「自分の心が呼んでいないものは、自分に近づいてくるはずはない」と、強い信念があります。その人の心の持ち方や求めるものが、そのまま人生を現実に形づくっていくので、ことを成したいという思いがあるなら、まずこうでありたい、こうあるべきだと思うことが大事です。誰よりも強く、誰よりも熱意をもって願望すれば、それが現実になるものだ。その成したいと思った姿がカラーで見えなければならない。運命は自分の心次第でどうにでもなるものだという真理に気づく。正直で、欲張らず、人に迷惑をかけず、親切にせよという原理原則が一番である。リーダーは才よりも徳が求められる。一に人格。二に勇気。三が能力。働く喜びこそが、この世に生きる最上の喜びである。まず組織全体をアメーバと呼ぶ小集団に分けていきます。そして、各アメーバにリーダーを設けて、そのリーダーは、それぞれが中心となって自らのアメーバの計画を立てていきます。メンバー全員が計画を実行するために知恵を絞り、全員で力を合わせて努力することで、それぞれのアメーバの目標を達成していきます。そうすることで、小さなアメーバの中では社員ひとりひとりが主役ともなり、結果的に自主的に経営に参加する「全員参加経営」を実現できるのです。1988年、会社更生法の適用を申請した「三田工業」という複写機のメーカーから要請を請け「京セラミタ」として子会社に編入させて、当初9年掛かると言われた更生計画を僅か2年で達成させました。2010年、JAL(日本航空)の会長に無報酬で就任し、2兆3000億円という負債を抱え赤字続きだった日本航空を3年で再上場させた。政府からの強い要請により、周りの反対を押し切ってこの大役を引き受けた理由は、一つ目は二次破綻により日本経済への悪影響を食い止める為と、二つ目は残された従業員の雇用を守ること。そして三つ目は、正しい競争環境を維持することにより、国民の利便制が確保できるとすることでした。当時の日本航空は、倒産したことに対する危機意識も当事者意識にも欠けており、社員がバラバラで再建は不可能と思われました。全員の意識改革を始め、全従業員の3分の1のリストラを断行し、着任の翌期に営業利益1800億円の高収益の企業に生まれ変わらせました。そんな稲盛和夫氏の妻は、禹長春という韓国の農学博士の4女の方で名前は「朝子」さん。この禹長春という方は日本で農業を学び、後に渡韓して韓国の農業の発展に尽力して「韓国近代農業の父」とも呼ばれています。日本生まれの禹は韓国語を話せませんでしたが、そのころの韓国は食糧不足が問題になっており、禹を呼び寄せる運動が起こり、妻と子供を残し渡韓しました。その後、最愛の母が日本で亡くなったとの知らせを受けても日本への帰国は叶うことは無く、9年後に病死しています。稲盛和夫氏の主宰する経営塾の「盛和塾」も2019年末で活動を終わらせ解散することに決まりました。稲盛和夫氏は、「何度も考えた結果出した結論として、この塾は一代限りで終わらせるのが一番良いと判断しました。組織を残してしまうと、いつか組織を悪用しようとしたり、組織の名前を汚す人が出てきてしまうからです。」高齢の為、精力的に参加できなくなったから出した結論です。残念で寂しくもありますが、これも時代の流れなのですね。これからの世の中にこそ、稲盛和夫氏の自分だけが得しようとしない、人のためにという教えがビジネスには本当に必要だと思います。

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